神崎正陳会員のページ

[卓話](2017/03/29)
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[卓話](2014/04/09) 「ロータリー雑誌月間に因んで」
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[卓話](2013/10/02) 「初期のロータリーについて」
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[卓話](2013/02/20) 「ロータリー創立記念例会」
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[3分間スピーチ](2012/08/08)
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[卓話](2010/04/14) 「雑誌月間に因んで」
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[卓話](2010/02/24) 「ロータリー創立記念例会」   >>資料(PDFファイル)<<
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[卓話](2010/01/20) [ロータリー財団委員会]
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[卓話](2010/01/13) 「ラショナルロータリアニズム」
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[卓話](2009/11/25) 「ロータリー財団とアーチ C. クランフ」
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 ロータリー財団の説明書はいろいろありますが、財団の組織や活動内容を正確に知るためには、毎年財団が発行している「ロータリー財団地域セミナーハンドブック」をお読みになることが、正しい情報を獲得するためには不可欠です。しかし、この本はある程度財団についての知識を持つ人でないと、とても読みきることは不可能でしょう。そして財団のプログラムは、これから大きく変わろうとしています。そのようなことを卓話で語りつくすことは到底不可能ですし、私にその能力もありません。今日は「ロータリー財団」の成り立ちと、それを最初に提唱したアーチ・C. クランフ“Arch C. Klumph ”についてご紹介してみたいと思います。
 「ハンドブック」には次のように書いてあります。「ロータリー財団は、1917年、米国ジョージア州アトランタで開催された国際大会において、アーチC. クランフが『全世界的な規模で慈善・教育・その他社会奉仕の分野でよりよきことをするために基金をつくろう』と提案したことに始まり、1928年国際大会でロータリー財団と名づけられ、1931年に信託組織となり、1983年に米国イリノイ州法の法令の下に非営利財団法人となりました。」
 「ハンドブック」はさらに、「アーチが提唱した数ヶ月後、この新生基金は、翌年の大会開催地のクラブであるカンザスシティ・ロータリー・クラブから26ドル50セントをその最初の寄付金として受け取りました。」というようなことが書いてありますが、なぜ寄付金が少なかったのか、アーチ C. クランフという会長はどんな人だったのかというようなことについては、全く触れられていません。
 本日は、アーチが国際基金の提唱をした1917年という時代、アーチをはじめとするその当時のロータリーのリーダーたちの人となり、アーチのロータリー財団に対する考え方、等についてお話をしてみましょう。

1 ところで、アーチとはどんな人だったのでしょうか。
 彼は、1869年ペンシルヴェニア州のコンノートヴィルという小さな町に生まれました。ポール・ハリスやフレデリック・シェルドンより1歳年下ということになります。しかし、彼が人生の大部分を送ったのは、オハイオ州クリーブランドでした。彼の母方の先祖には、「アメリカ小説の父」といわれるジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789-1851)がいます。代表作として「レザーストッキング物語」、「モヒカン族の最後」、等が知られていますが、おそらくお読みになった方はいらっしゃらないでしょう。
 血統が優れていても経済的には恵まれなかったようで、彼は12才で学校をやめ、その後は独学と夜学で勉強し、18才でクリーブランドの材木会社に就職するのですが、目覚ましい出世をして終にはその会社のオーナーになってしまいます。彼の並外れた才能は、それだけでは満たされなかったのでしょう。製函会社の社長、貯蓄貸付組合の理事長、不動産会社、船会社の副社長にもなっています。さらにクリーブランドだけではなく、オハイオ州の商業組合や地域組織で活躍し、建物供給会社の法律部門代表なんていう役までやっています。ところが、彼は決して単なる事業上の成功者ではありませんでした。あろうことか、クリーブランド交響楽団で14年間もフルート奏者をつとめ、オケのマネージャーまでやってのけているのです。後掲の出典には“The Cleveland Symphony Orchestra”とあります。この記載が正確ならば、名門“The Cleveland Orchestra”とは別の楽団だということになります。その他にスポーツも…、もう止めておきましょう。いや、もう一つだけ言わなければならないものがあります。ロータリーです。冒頭にご紹介した国際基金の提唱はもちろん、1915年のサンフランシスコの国際大会で採択された標準ロータリー定款と細則の立案、さらに地区組織の確立(地区ガバナー制度等)は、彼の力に負うところまことに大でありました。(ポール・ハリスとその後継者p.29)。
 1911年に「材木卸・小売り」という職業分類でクリーブランド・ロータリー・クラブに入会した彼は、14年に国際ロータリー・クラブ連合会理事を経て、16年に同連合会会長になりました。彼はポール・ハリスより長生きし,1951年6月3日に亡くなりました。

2 26ドル50セントの話に戻りましょう。誰でも寄付金額のあまりにも少額なことに驚きます。(もっとも、財団の説明書では、最初の寄付金の額がそうであっただけで、その後寄付金は順調に集まったように読めますが)これには幾つかの理由が考えられます。
 まず、彼は1916年に会長になると、その年の7月にオハイオ州のシンシナティで世界大会を開催しています。年度はじめの8月の大会は、この年が最後となります。で、彼は同じロータリー年度の1917年6月(17-21)にもう一度ジョージア州アトランタで国際大会を開催し、国際基金の提唱はこの大会でなされたのです。会長の任期が切れる直前の“Outgoing President”の国際基金の提唱は、やはりインパクトが弱かったのではないでしょうか。次の会長レズリー・ピジョンが不熱心だったとは思いませんが、成り行き上そうなり勝ちなことは理解しうることです。
 つぎに、1917年6月7日にシカゴで、ライオンズ国際協会がメルヴィン・ジョーンズによって結成されています。ライオンズ国際協会がロータリー運動に対立する立場から創られたことは古くから指摘されています。このことは、ライオンズ国際協会のホームページが次のように記していることからも裏付けることができます。「1917年シカゴの実業界のリーダー(business leader)メルヴィン・ジョーンズは、彼の地元のビジネスクラブのメンバーに『仕事の問題を超えて地域や世界をよりよくするために貢献していくべきだ』と話しました。」。彼はシカゴで保険代理店のオーナーでしたが、1912年にはビジネスサークルの会員になっていました。彼が、地域に密着して1業1会員制と出席の励行による会員間の親睦を通じて、会員の人格の向上を志向するロータリー運動の閉鎖性に飽き足らず、新グループの結成に走ったということは十分考えられることです。
 さらに、その前の年に、ガイ・ガンディカーの「ロータリー通解」が発行されていますから、当時のロータリアンはロータリーの基本的な理論に鋭敏な感覚を備えていた可能性は高かったでしょう。
 こんな事情が複合して、当時のロータリアンたちは、国際基金の提唱に対して冷淡に対応したとも考えられます。第一次世界大戦中に、シカゴ・ロータリー・クラブに戦争問題担当委員会が設けられるなど、国際奉仕の理念が導入される機運は醸成されつつあったのですが、国際奉仕に関する規定が綱領に組み込まれるのは、1919年のソールト・レイク・シティの大会を待たなければならなかったのですから、ロータリーの歴史の流れを変えた国際基金の提唱は、先見性に優れていたが故に、タイミングが早すぎたという面が合ったとも言えるでしょう。
 ロータリー財団は、このようにして未熟児として生まれる運命にあったのです。その後のアーチの苦労のほどは、ポール・ハリスがロータリーの理想と友愛の中で説明しています。しかし、そんなことでへこたれるアーチでないことは、これも上記の彼の経歴から、ご理解いただくことができましよう。

3 ところで、アーチの八方破れとも言うべき経歴は、他のロータリー草創期のリーダーたちにも共通しているようにも思えます。
 「ロータリー通解」の著者ガイ・ガンディカーを見てみましょう。彼は、1873年にペンシルヴェニア州のランカスターで生まれました。育ったのは同じ州のフィラデルフィアでした。ニューヨーク州のイサカにあるコーネル大学を卒業して教師になりました。その世界で実力を発揮しただけではなく、彼は新聞の論説者としても名を挙げる傍ら法律の勉強をして1902年に弁護士の登録をしています。彼は又万能のスポーツマンでもありました。1893年のシカゴ万博のとき(ポール・ハリスも米山梅吉もフレデリック・シェルドンもこの博覧会には縁がありました。)彼は19才でしたが、小型ホイールの新型自転車を駆ってフィラデルフィアからシカゴまで走破しています。彼は妻の父の死後レストラン経営者に転じ、彼がロータリアンになったときの職業分類はRestaurateur(レストラン経営)でした。

 4人目の全米ロータリー・クラブ連合会の会長フランク・マルホランドは弁護士でしたが、若いときアテネに留学し芸術の研究に打ち込んでいます。
 ポール・ハリスが、自ら「5年間の愚行」と言っている遠回りの人生経験をしたことは申し上げるまでもないでしょう。
 少し時代は下がりますが、ハーバート・テイラーは安定した高給の保証された会社の重役の地位を惜しげも無く捨てて、破綻に瀕した会社の再建に打ち込み見事に目的を達しました。そのときの副産物が『四つのテスト』であることは皆さん良くご承知のことです。このように、目先の小利に惑わされずに大きな目的を追い求める、スケールの大きな人たちによって創られ、発展させられてきたロータリー運動というものを、先の読めない21世紀を生きて行かなければならない現代のロータリアンたちは、あらゆる角度から再吟味してみる必要があるのではないでしょうか。爆発的に発展した初期ロータリー運動のモーメンタムの在りかはこの辺にあるのかと思われるのです。

4 アーチ C. クランフが、ロータリー財団のことをどのように考えていたかをご紹介しましょう。「ロータリー財団は煉瓦や石で記念碑を建てようとするものではない。たとえ大理石で記念碑を創ってもそれは崩壊する。真鍮で創っても時を経れば消滅する。寺院を建ててもやがて崩れて塵になる。しかし、綱領に表現されているロータリーの完全な意義、また神に対する畏敬の念と隣人愛という不滅の精神をもって創りあげるならば、われわれは永遠に輝き続けるものを記念碑の上に刻んでいることになるのである。」(ザ・ロータリアン1929年4月号)、「われわれは、どのようにしてロータリー財団を育てあげて行くべきか。それは自発的な任意な参加によってのみなされるべきであって、決して査定や無理な要求によってなされるものではない。」(ザ・ロータリアン1935年1月号)
 これらの言葉が述べられた時期を見ると、アーチ C. クランフが懸命にロータリー財団(国際基金は1928年にロータリー財団になっています。)のために献身していたことが分かります。同時にアーチの提唱した運動が必ずしも周囲から理解されていない中にあって、彼のロータリー財団に対する認識が、時代の流れを超えて、正鵠を得ていたということもできます。

5 私たちは、ロータリー財団委員になると、受身の義務感から金集めのことにばかりに気を取られ勝ちですが、そうなることはアーチが一番嫌っていたことなのです。広くはロータリー運動に、そして焦点を絞ってロータリー財団に対する、任意かつ自発的な参加意識を高めるためには、スーパーマンとでも言うしか言いようのないアーチ C. クランフや、さらには上にご紹介したようなロータリーの先達を徹底的に理解することによって、もっと彼らに親しみを抱くことが必要だと思います。そうすれば、アーチの言行を感覚的に身に帯することが可能になり、さらには、アーチに成り代わろうという気持ちにまで精神が昇華して行くでしょう。わたしたち現代のロータリアンが一人でも多くそういう気持ちを持つようになること、それが任意かつ自発的な参加意識を持つことに他なりません。そうなれば、ロータリー財団の運動は、多くのロータリアンに愛され活性化するのではないでしょうか。

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